西田幾多郎
「短歌について」より『西田幾多郎全集 第十三巻』131頁
西田幾多郎(にしだ きたろう 1870-1945)は近代日本の代表的な哲学者。40歳で京都帝国大学文科大学助教授(倫理学)に就任。41歳(1911年)に記念碑的な哲学書『善の研究』を出版。主観・客観が分離する以前の原初的な純粋経験に着眼し、以後、伝統的な西洋哲学に対して、独自の立場を展開していった。
西田は折々に短歌を詠み、日記にしたため、知人へ手紙に添えた。作歌は、10代の頃に始まり生涯で約200首を残し、とりわけ妻が脳溢血で倒れ、長男が病死した50歳以降に顕著に増えたとされる。「幾多郎は自分の心情を絞り出すかのように作歌し、日記に書き留めました」(「西田幾多郎と短歌」石川県西田幾多郎記念哲学館、5頁)。
西田は、1908年に創刊した短歌雑誌『アララギ』の編集人で当時の歌壇の中心的存在であった島木赤彦や斎藤茂吉と交流があった。表題文のある「短歌について」が最初に掲載されたのも『アララギ 二十五周年特別記念号』(1933年)である。島木赤彦は『歌道小見』(1924年)の中で「写生」ということについて(『歌道小見』27頁/「西田幾多郎と短歌」石川県西田幾多郎記念哲学館、10頁)、
「私どもの心は、多く、具体的事象との接触によって感動を起こします。感動の対象となって心に触れ来る事象は、その相触るる状態が、事象の姿であると共に、感動の姿でもあるのであります。左様な接触の状態を、そのままに歌に現すことは、同時に感動の状態をそのまま歌に現すことにもなるのでありまして、この表現の道を写生と呼んでおります」
と言い、この本の書評を頼まれていた西田は赤木の「写生」の考えにふれてこう記している。
「写生といっても単に物の表面を写すことではない、生を以て生を写すことである。写すといえば既にそこに間隙がある、真の写生は生自身の言表でなければならぬ、否生が生自身の姿を見ることでなければならぬ。我々の身体は我々の生命の表現である、泣く所笑う所、一に潜める生命の表現ならざるはない。表現とは自己が自己の姿を見ることである。十七字の俳句、三十一文字の短歌も物自身の有(も)つ真の生命の表現に外ならない。我々の見る所のものは物自身の形ではない、物の概念に過ぎない、詩に於(おい)て物は物自身の姿を見るのである」(「島木赤彦君」『西田幾多郎全集 第十三巻』181頁、初出:『アララギ』1926年)。
さて、表題文に戻る。少し長いが、表題文の前後を補って引用しておきたい。
「西洋でも二三行位の短詩というものはないではないが、多くは概念的であって、教訓的とか諷刺的とかいうものが多い。短詩の形式によってのみ言い表される芸術的内容を言い表したものとして我国の短歌の如くそれ自身の芸術的領域を有(も)つものは少い。……短詩の形式によって人生を表現するということは、単に人生を短詩の形式によって表現するということではなく、人生には唯、短詩の形式によってのみ掴み得る人生の意義というものがあることを意味するのである。短詩の形式によって人生を掴むということは、人生を現在の中心から掴むということでなければならぬ、刹那の一点から見るということでなければならぬ。人生は固(もと)より一つである。併(しか)し具体的にして動き行く人生は、之を環境から見るということと、之を〔物質面を破って進展する〕飛躍的生命の先端から掴むということとは同一でない。そのいづれより見るかによって、人生は異なった観を呈し、我々は異なった意義に於(おい)て生きると云うこととなるのである」(『西田幾多郎全集 第十三巻』131頁)。
文献:『西田幾多郎全集 第十三巻』(岩波書店、1952年)、石川県西田幾多郎記念哲学館企画展図録「西田幾多郎と短歌」(同館、2023年)