西行

『新古今和歌集』

平安時代末期の歌人で僧侶、西行(1118-1190)の歌。一見して際立っているのは、「内なる心と外なる境とがぴたっと一つになったやうな」(森重、下記7頁)表現であろう。

口語訳の一例は、「風に靡く富士の噴煙が、空に消えていく。同じように、どうなったかも知られない、無に帰したわが思いであることよ」となる(参考:森重、下記201頁)。

西行が69歳から70歳頃、東大寺建立の勧進に藤原秀衡に会うため奥州に2度目に赴いた折の歌として知られる2首のうちの1首で、『新古今和歌集』(1201年)に収録されている。なお『拾玉集』(1346年)の伝えるところによれば、この歌は西行の自賛歌(最も優れたものと作者自身が認める歌)である。ちなみに同時期のもう1首は次の歌である。

年たけて又越ゆべしと思ひきや 命なりけり小夜(さや)の中山

西行とその歌を解説した書は数多あるが、今回は国文学者の森重敏(1922-2007)の『西行法師和歌講読』に依拠する。

「風になびく……」の歌の解釈は「行方も知らぬ」が「我」にかかるか「思い」にかかるかで大きく2通り可能であるが、普通は「思い」にかかるとみる(同201頁)。

また、「靡(なび)く」は和歌としては恋に使う詞(ことば)であり、「富士の煙」も恋の燃える「思ひ」によく譬える詞、「ゆくへも知らぬ」も恋にしばしばいう句である(同194頁)。

他方、「煙が空に消える」というのは和歌の世界では「火葬の煙」をいう。つまり「風になびく……消えて」は、さっきまでは靡いていたが、今はすっかりなくなったということ、思いがいわば火葬になってすっかりなくなってしまった、ということである(同199頁)。

「恋の意味の濃い上句に対して、下句では恋が薄くなって雑の心が前面に出てをり……それは同時に過去の心と現在の心といふ順序にもなってをりまして、なかなか一生の自分といふものをよく見た歌だと思ひます。二つの心の兼合ひをいった歌です。上下句の切れ続きは、ちょっと連歌の付合ひを思はせるやうなところがあります」(同200頁)。

歌全体として、恋をはじめとする生の迷妄が消え、おのづから湧いては消える、あるがままに任せた心、一種の悟りの境地があらわされている(同201-202頁)。

随筆家の白洲正子(1910-1998)は『西行』の中で、西行の2度目の奥州への旅路のものとして残る上掲の2首について、次のように述べている。

「小夜の中山の歌と、富士の歌は、私にはひとつづきのもののように思われてならない。昼なお暗い険阻な山中で、自分の経て来た長い人生を振返って、『命』の尊さと不思議さに目ざめた西行は、広い空のかなたに忽然と現れた霊峰の姿に、無明(むみょう)の夢を醒まされるおもいがしたのではないか。そういう時に、この歌は、一瞬にして成った、もはや思いを残すことはないと西行は感じたであろう。自讃歌の第一にあげた所以である」(313-314頁)。

文献:森重敏『西行法師和歌講読 (研究叢書 190) 』単行本 – 1996/5/1白洲正子『西行』(新潮文庫) 文庫 – 1996/5/29(それぞれクリックでAmazonに移ります)