西谷啓治
(随想「青天白雲」より/『京都哲学撰書 西谷啓治 随想集 青天白雲』188頁)
西谷啓治(にしたに けいじ 1900−1990)は宗教哲学者。西田幾多郎に師事してその学風を継ぎ、京大や大谷大学で教鞭を執った。折々に随筆を多くものしている。
上掲の言葉は「青天白雲」と題した小さな随筆の中にある。随筆はこう始まる。
「生活が日増しにせわしくなってゆく。それがひしひしと肌身に感ぜられるような時世である。交通機関や通信技術が急速に進歩してきたからだろう。自分のほうでは用事に用はなく、むしろできるだけ避けたい気持でいるのに、用のほうから押し寄せてくる。自然とそういうことになる。それで時々、忙しくて目がまわる感じになる。世の中の回転の速さに自分が(自分の目、自分の感性が)追いついてゆけないのである。 現代では大抵の人がそうであろう。そこでレクリエーションが必要になり、飲み屋や遊び場や観光事業が栄えるのであろう。そういう趣味のない自分の場合には、わずかにその代用の役をしているのは、形而上学的感覚と自分で名付けているものである」(上掲書187頁)。
せわしい生活を離れるレクリエーションの代わりとなる「形而上学的感覚」の一例として西谷があげるのが「青空を眺める」ことである。
西谷によれば、青空は眼に見える「虚空」——つまり物理的空間や生物の環境を構成する生空間、心理的に現れる空間など、あらゆる空間を成立させる場としての「空間性」そのもの、言い換えれば、「さまざまな形をとって現われてくる心の奥底にある、形のないところ」——が、人間の感性に現れ、眼に見えるものとなっているのが青空である(同188頁)。青空を見るとき、肉眼が心眼であり、心眼が肉眼であるという関係になる(同188-189頁)。
西谷は論文「空と即」(『西谷啓治著作集 第十三巻』112頁)でもやはり空(そら)にふれて次のように述べている。「目に見える虚空は形なきものであり、厳密な意味では形象とかイメージとはいへない。むしろ形なきものの可視的な現象ともいふべきものである」。
文献:『京都哲学撰書 (第16巻) 西谷啓治 随想集 青天白雲』 単行本 – 2001/7/20、『西谷啓治著作集 第十三巻』単行本 – 1987/10/1、長谷正當『心に映る無限——空のイマージュ化——』単行本 – 2005/9/15(10-11頁) (それぞれクリックでAmazonに移ります)