谷崎潤一郎

(『文章読本』文庫版39頁)

先日に引き続き、明治生まれの小説家、谷崎潤一郎の『文章読本』から。

谷崎は、上掲の事の例として、自分が幼い頃に覚えた百人一首の和歌を思い出すときには「いつも必ず骨牌(かるた)に書いてあった文字の形が眼に浮かぶ」ことを挙げる。谷崎の場合、和歌を思い出すより先にそのカルタの美しい字体を思い出すらしい。

「私はその字体を思い出しながら、その和歌を思い出し、それが書いてあった骨牌の手触りを思い出し、それを弄(もてあそ)んだ幼年時代の正月の晩を思い出して、云いようのない懐かしさを覚える」(上掲書39-40頁)。

「字面と云うものは、善かれ悪しかれ必ず内容に影響する、我が国の如く形象文字と音標文字とを混用する場合において殊(こと)に然(しか)りである。そうだとすれば、その影響をその文章が書かれた目的と合致させるように考慮するのが当然であります」(40頁)。

名文家である谷崎が、「文字の体裁」、いわば文章のまとう衣である「字面」を疎かにするどころか、これほど大切さを強調して説いているのは、意外さの反面、妙に納得させられる。

谷崎は「字面」ということで、難しい漢字を使おうと言っているのではない(むしろ逆である)。日本語だと、たとえば「デスク」「机」「ツクエ」と3通りに書ける。「されば、ありふれた漢語を故意に仮名で書いて読者の注意を促し、記憶に資すると云う手段が、そこに成り立つわけであります」。「漢字は字劃(かく=画)が複雑なため、今日のような小型の活字になっては固有の魅力が大半失われてしまいましたが、平仮名は字劃が簡単でありますから、今もなお魅力を失いません。字面を快くすると云うのは、こう云うことを総(すべ)て考慮に加えて書く、と云う意味であります(41頁)。

なお、谷崎はこのくだりで、文章の、眼を通じた快さつまり「字面の美」について語っているわけであるが、谷崎は合わせて、耳からくる快さ、つまり「音調の美」についても説く。

「眼や耳から来る感覚的な快さが、いかに理解を助けるものであるか……既に言葉と云うものが不完全なものである以上、われわれは読者の眼と耳とに訴えるあらゆる要素を利用して、表現の不足を補って差し支えない」(37-38頁)。

名文家である谷崎は、言葉というものの不完全さを認めている。だからこそ、「字面の美」と「音調の美」の「この二条件を備えていなければ、意味が完全には伝わらないのである」(47頁)と言い、表現の不足を補うために両者を利用するよう促している。

※引用にあたっては、旧字体と繰り返し記号を改めている。

*写真は、西本願寺本『三十六人歌集』の源重之集の帖末部分 「えだわかぬ はるにあへども むもれ木は もえもまさらで としへぬるかな」、高さ約20cm、西本願寺蔵(Wikimedia Commons)。読めなくとも美しい。

文献:『文章読本』(中公文庫 た 30-28) – 1996/2/18(クリックでAmazonに移ります)