木村 敏

(『自分ということ』文庫版116頁)

木村 敏(きむら びん 1931-2021)は精神科医。精神病理学と臨床での統合失調症(精神分裂病)や離人症の症例をもとに、西洋哲学や西田幾多郎の哲学なども参照しながら、自己や対人関係の現象学的構造を探索し、さらにすすんで「あいだ」を基軸とする独自の人間学を構想した。

アイデンティティ、つまり自己同一性ということを私たちは言う。ただし木村によれば、「たとえば子どものときの私といまの私が同じ私だといっても、それは『もの』としていっしょだということではない。『もの』として考えれば私たちの身体というものは刻々変化しているわけですね。けっして同一ではない」(上掲書116頁)。

では何が「同一」なのか。木村は「もの」ではなく「こと」が同一なのだと言う。そして、自分という「こと」が同一であるという事態を説明したのが上掲の言葉である。

わかりやすくするために、木村は「テレビドラマの各場面と全体としての筋」で説明している(それが上掲の言葉の「……」部分に入る)。

「私は映画とか、テレビドラマとかの技術についてはまったく無知ですけれど、一つ一つの場面から場面への転換は、もしそこをつなぐ意味の展開ということを考えなかったら、まったく唐突で、おかしなものになってしまうでしょうね。私たちはその背後に流れている意味の展開を先回りして理解しているからこそ、急激に場面が変わってもそれについていけるわけでしょう。筋がのみこめるから場面についていけるのです。 ドラマの筋というのは、これは『もの』じゃなくて『こと』の性質をもったものです。意味の連続ですから。だから離人症で『こと』が欠落して、意味が感じられなくなると、テレビドラマは完全に『もの』的な場面場面の不連続なつなぎ合わせにすぎなくなってしまうのでしょう」(同書110-111頁)。

音楽もそうした「こと」の連続、意味の連続で成り立っていると木村はいう。

「そこに一つ一つの音楽の流れがあって、それが一つ一つの音と音のあいだをつないでいる。音と音とのあいだの、音のない空間というのか、そういう音のない部分に音楽の生命のようなものが宿っているのだろうと思いますが、それが離人症ではわからなくなります」。「一つ一つの音が高いとか低いとか、あるいは大きい音だ、小さい音だというようなことはわかるのですが、音楽というものがまるで意味をなさなくなる。音楽を聴いても何を聴いているんだかわからないということを、よく患者がいいます」(同書111頁)。

文献:『自分ということ』 (ちくま学芸文庫 キ 14-4) – 2008/5/8(クリックでAmazonに移ります)