無着成恭
(『山びこ学校』「岩波文庫版あとがき(1995年)」355頁)
無着成恭(むちゃく せいきょう 1927-2023)は、山形県出身の教育者で禅宗の僧侶。
終戦時18歳だった無着は、当時をこう回想する。「『天皇陛下のために死ぬことが、悠久の大義に生きることだ』この言葉が旧制中学を卒業するまでの十八年間、ことあるごとに聞かされたのです。……『死ななくともよい』と急に言われても、生き方がわからなくなったのです。日本人のほとんどがそうでした。それを『虚脱状態』といいました」(上掲書353頁)。
無着は1948年に山形師範学校(現 山形大学地域教育文化学部)卒業し、山形県山元村(現 上山市)の山元中学校の教師となる。
無着によれば、当時の文部省の教科書、たとえば『社会科4 日本のなかの生活』には、「村には普通には小学校と中学校がある。この9年間は義務教育であるから、村で学校を建てて、村に住む子供たちをりっぱに教育するための施設がととのえられている」と書かれていた。
ところが、「それをそっくりそのまま子供に教えたのではウソになる」と気づいた。つまり現実には、地図一枚なく、理科の実験道具一かけらもなく、かやぶきの校舎で、教室は暗く、おまけに破れた障子から吹雪がぴゅうぴゅうはいって来る教室で」、貧しい山村には「学校が教科書の条件をみたす何十分の一の資力もない」のが現実だった。村民の暮らしぶりも教科書の記述とはほど遠かった。
無着は教科書の言葉を「社会科の勉強とは『りっぱに教育するための施設がととのえられて』いなければ、『ととのえるための能力をもった子供』にする学科」なのだと読み替える。
そこで無着が始めたのが、綴方(つづりかた=作文)による「ほんものの社会科」だった。教科書に書かれていることや教師がこうすべきだと言うことと、現実の暮らしで体験することの間の矛盾が子どもたち自身の言葉でつづられ、それをクラスで共有し討議し、行動にまでおし進めていく(上掲書312-313頁)。その中学2年の生徒43名(1949年度)の「生活綴方」は、『山びこ学校』として1951年に刊行されベストセラーになった。
上掲の言葉にある、軍国主義一色であった戦前と経済主義をつっぱしる戦後の間の「一瞬のすき」にできたのが『山びこ学校』の教育であったという無着の回想は、言い換えれば「一瞬の隙」をついてその前後が連続的であるということである。戦前の軍国主義と戦後の経済至上主義がどうつながるのか。無着はそれを「世界に認めさせたい」という他律的な欲求に見ているわけであるが、その連続性はまた、「道徳的な規格や基準は一夜にして変わること、そして一夜にして変動が生じた後は、何かを固持するという習慣だけが残される」というハンナ・アーレントの言葉も想起させる。というのも、「何かを固持するという習慣」を柔軟に打ち砕くのが「生活綴方」の教育であったと見られるからである。明日はそれにふれたい。
無着はその後、1954年に山形を離れ上京。駒澤大学仏教学部を卒業後、東京や千葉、大分で教師や禅寺の住職となり、またTBSラジオ『全国子ども電話相談室』(2008年に終了)の回答者を33年間務めた。
*掲載写真は「上山かかし祭りのかかし」(©山形県) 上山市の「かかし祭り」は1971年~2019年まで毎年秋に開催されていたが「少子高齢化や作り手の減少など」を理由に2024年に閉幕が発表された。