福田康夫さん

(朝日新聞2025年8月11日付インタビュー記事より)

「戦争をしてはいけないと口で言うのは簡単。過去の記録や証言から、いかに自分のこととして※1、自国のこととして捉え、想像力を働かせることができるか。まだ覚悟が足りていないように思う」とも。

福田康夫さん(ふくだ やすお 1936- )は元首相。大蔵官僚だった父・赳夫さん(1976-78年には首相)が日中戦争下で汪兆銘政権の財政顧問を務めた関係で、幼少の一時期を中国・南京で過ごす。終戦は疎開先の群馬県で迎える。17年余りの会社員勤めの後、40歳で父・赳夫さんの首相在任中に首相秘書官となり、1990年の衆院選で初当選。森喜朗、小泉純一郎内閣で官房長官を3年半余り務め、2007年9月から翌年9月までの1年間、首相在任。2012年に政界引退。現在89歳。

戦後80年の今年、戦前生まれの現職国会議員は約1%になったという。上に引いた言葉は、この状況を受けて、戦争経験のある政治家に「次世代に伝えたいこと」を聞く連載の新聞記事の中にある(「『戦争しなければ』を作らない、それが政治家の仕事 福田康夫元首相」朝日新聞デジタル2025年8月11日)。

このインタビュー記事の中で、福田さんは戦時中の疎開先での生活をふりかえって二つのエピソードを伝えている。

朝学校に行くと毎日のように空襲警報が鳴り、すぐに家に帰る。そして近所の子たちで集って兵隊のまねごとをした。玉音放送が流れたときも「戦争ごっこ」をしていた。敗戦と聞いて、「戦争をやめるなんて、天皇陛下はけしからん。自分たちは竹やりを用意して勝つと信じてがんばっているのに」と怒りをぶちまけた。それから1週間後には、東京に戻ることになった。

「一番忘れられないのは、出征兵を見送ったときだ。50人くらい集まって、威勢よく軍歌を歌いながら村から送り出した。私の親戚も出征した。その時の、彼らのかなたをみるような顔つきが、妙に心に残った。
まだ子どもだったけど、その後、彼らは戻って来られないと分かりながらも従っていたのだろうな、結婚の約束をした人を残していった人もいたろうに、などと自分が年を重ねていくと、そういう思いが積み重なっていった。何度もあの時の彼らの表情を思い返して、本当に何とも言えない思いがする。今でも思い出す。戦争っていうのは自由がなく、通常の行為とはまったく別の非人間的な強制力が伴う。二度とあんなことはしたくないし、させてはいけない」。(上掲記事)

福田さんは、小泉首相(当時)が靖国神社を参拝してアジア諸国の反発を招いた2001年に官房長官として私的懇談会(「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」)をつくり、1年の議論を経て新たな国立の追悼施設の建設を提言した。「宗教を意識することなく誰もが追悼でき、歴史を知る施設が必要だと考えたからだ。実現には至らなかったが、今でも必要だと思っている」(同上、太字強調は引用者による)。

同記事に添えられたインタビュー動画の中で、福田さんは「戦争はすべきものじゃない。人間性を放棄する話だから」と言い切っている。戦争を己が身の上で体験した記憶と確信は、党派を超えて一人の人間を動かしてきたのだろうと想像される(目立った動きは少なかったとしても)。

1 編集の手の入った記事では「自分ごと」と表記されていたが、記事内の動画に見える実際の発言にしたがって「自分のこととして」と直した。「自分ごと(自分事)」は近年あらわれ急速に普及している感があるが、この言葉に強い違和感をもつ人は少なくない。この記事は図らずも、こうした仕方で新聞社も「自分ごと」の普及に一役買っていることの傍証になっている。