岡 潔
(岡 潔・小林秀雄『人間の建設』文庫版103頁)
上掲の言葉は、数学者の岡 潔と評論家の小林秀雄の対談で、小林に「数学者における一という観念」を問われて岡が答えたものである。岡はほかの著作などでも「一という観念」についてしばしば触れているが、この小林秀雄との対談では小林が介入することで割合よくまとまって説明されている。岡は「一」ということを生後十八ヶ月の赤ちゃんにまで遡って考えている。その説明は次の通り。
子供が「自然数の一を知るのは、大体生後十八ヶ月と言ってよいと思います。それまで無意味に笑っていたのが、それを境にしてにこにこ笑うようになる。つまり肉体の振動ではなくなるのですね。そういう時期がある。そこで一という数学的な観念と思われているものを体得する。生後十八ヶ月前後に全身的な運動をいろいろとやりまして、一時は一つのことしかやらんという規則を厳重に守る。その時期に一ということがわかると見ています。一という意味は所詮(しょせん)わからないのですが。…〔小林の質問〕
自分の肉体を意識するのは遅れるのですが、それを意識する前に、自分の肉体とは思わないながら、個の肉体というものができます。それがやはり十八ヶ月の頃だと言えると思います。…〔小林の質問〕
数学は一というものを取り扱いません。しかし数学者が数学をやっているときに、そのころできた一というものを生理的に使っているんじゃあるまいかと想像します。しかし数学者は、あるかないかわからないような、架空のものとして数体系を取り扱っているのではありません。自分にはわかりませんが、内容をもって取り扱っているのです。そのときの一というものの内容は、生後十八ヶ月の体得が占めているのじゃないか。一がよくわかるようにするには、だから全身運動ということをはぶけないと思います。…〔小林の質問〕
私がいま立ち上がりますね。そうすると全身四百幾らかの筋肉がとっさに統一的に働くのです。そういうのが一というものです。一つのまとまった全体というような意味になりますね。だから一のなかでやっているのかという意味はよくわかります。一の中に全体があると見ています、あとは言えないのです。個人の個というのも、そういう意味のものでしょう。個人、個性というその個には一つのまとまった全体の一という意味が確かにありますね」(上掲書103-105頁)。